【職人探訪】Vol.9 継承編「塗師四代・牧野漆工芸の伝承と革新」
高校時代、あの天才レフティ中村俊輔と3年間同じ教室で学び、同じチームで日本一を目指した。大学で挫折しJリーグを諦めた。卒業後、京都の実業団で社員サッカー選手としてJFL(日本フットボールリーグ)でプレーした。引退し、地元神奈川で株式会社タウンニュース社に就職。ローカルの政治・経済・教育・福祉・スポーツ。ありとあらゆるジャンルの取材をした。結婚し、紆余曲折を経て今、株式会社堤淺吉漆店の営業として全国の職人さん、作家さんを回っている私、森住。様々な人と出会い、様々な記事を書いてきたが、漆屋として通い続ける漆職人の世界は、今まで出会ってきたどんな世界よりも難しくて面白い。これまで、当社の一商品に焦点を当てながら、職人さんを紹介してきたこのコラム「職人探訪」だが、Vol.8とVol.9は、私が10年間通い続ける京都の2大仏具塗師を取材。主観的な私の思いも込めながら、「継承」をテーマに書いてみる。今回紹介するのは株式会社牧野漆工芸。
VOL.9 【継承】株式会社牧野漆工芸編 Instagram
京都府の南に位置し、平等院をはじめとする歴史的な有名寺社仏閣を有する宇治市。源氏物語や宇治茶でも有名なこの地に京仏具の塗師集団、株式会社牧野漆工芸はある。仏教文化の都でもある京都は、ここ宇治市に限らず、府内いたるところに大小様々な宗派の寺院が点在し、その歴史と共に、仏壇仏具業界も一大産地として栄えてきた。もちろんそこに関わる職人の数は全国でも群を抜く。
京仏具の塗師とは、下地から漆塗りまでを手掛ける職人。国の伝統的工芸品に指定される「仏壇」の産地は京都をはじめ数多いが、「仏具」として指定されるのは、京仏具と最近指定された尾張仏具のみ。その京仏具の塗師の中でも従業員10人を誇る牧野漆工芸は、前回紹介した株式会社中谷漆工所と並び、業界を牽引する塗師集団。相撲で例えれば、東西の横綱といったところだろうか。
では牧野漆工芸の系図を紐解いてみる。
現会長・新一氏(72)の父親である新吉氏(享年88)は、京都の有名塗師のもとで働く生粋の職人。仕事を終え帰宅してからも自宅で茶道具に漆を塗る内職を夜中まで毎日コツコツとこなしていたという。
当時、父の真っ黒な手を見て、「この仕事は絶対やりたくない」と内心思っていた新一氏は、高校卒業と同時に某自動車メーカーのディーラーに就職。15年間サラリーマンを経験した。しかし、会社の将来性に不安を感じたのをきっかけに父の様に「手に職を持つことへの意義」を感じ、塗師の道を志す。従業員として働いていた父親に習うわけにもいかず、伝統工芸士・長谷川興市氏に従事。2年間半田下地と漆塗りの基礎を学び、独立。33歳で牧野漆工芸を設立した。
「自分はもう一人前」という気持ちで独立したものの、現実は甘くなかった。下請けとして様々な取引先の仕事をしたが、ダメ出しの連続。塗師の仕事の厳しさを目の当たりにした。当時は、自宅の寝室でカーペットを広げて仕事し、失敗を繰り返しながら技術を習得。寝る時はカーペットを上げて布団を敷いて就寝していた。
そんなオヤジの姿を見て、「そこまで仕事好きか?」と不思議に感じていたのが、現社長で息子さんの俊之氏(46)。「(この仕事を)全くやりたいとは思わなかった」と当時を振り返る。
「初代と手掛けた金閣寺修復が礎」
牧野さんと言えば、金閣寺の二層内部の修復(漆塗り)をしたことで知られている。一度目の修復を新吉氏が手掛けたこともあり、その35年後、二度目の修復も任されることになる。当時新一氏は独立して4年程たった37歳。新吉氏は長年勤めた塗師屋を退職し、自宅で趣味程度に茶道具に漆を塗っていた。先にも後にもこの金閣寺の修復が親子で手掛けた唯一の仕事だ。
「わしのやってきた事は間違いなかった」。
最初に現場に入った時の新吉氏の第一声。
「あの言葉は今でも忘れられない」と新一氏。
35年の歳月を経ても全く割れや歪みが無かったことを自らの目で確認し、出た言葉だ。それから約1年10カ月に渡って一緒に現場に入ったが、70を超えていた父親の仕事を見て「身のこなしが軽やかで、仕事がとにかくきれいだった」と新一氏は懐古する。と同時に、自分の未熟さを痛感した。この経験が後の牧野漆工芸の基盤となっている。
金閣寺の修復を終えると、しばらくは自宅工房で仕事を続けた。軌道に乗ってきたところで、現在の工房(宇治市大久保)の建設を開始したが、残念ながら新吉氏はその竣工を待たずして享年88歳、塗師屋人生に幕を下ろした。
「とにかく仕事人間だった」。特に趣味も無く、ワンカップの日本酒とタバコが唯一の楽しみで、職人気質の性格。現工房の3階事務所には、大好きなタバコを片手に息子たちを見守る新吉氏の写真が今も飾られている。
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さて、現社長の俊之氏が後を継ぐのを決意し、この仕事を始めたのは19歳の時。高校卒業後、別の会社に勤めていたが、慕っていた先輩が退職するのを機に自身も覚悟を決めた。その先輩も建築業を営む親戚の後を継ぐためだったらしく、自分と境遇が重なったことがきっかけとなった。
やりたいとも思わなかったし、父親から継いでほしいとも言われなかった。「いずれはという気持ちはあったけど、若かったこともあって何となくというのが正直なところ」と当時を振り返る。祖父の新吉氏とは「結局一緒に刷毛やヘラを握ることは無かった」。
祖父との思い出を尋ねると、面白いエピソードが。俊之氏が幼稚園の頃、急に作業部屋に呼ばれ「これに漆つけてみろ」と、練っていた錆漆と漆の空桶をおもむろに差し出された。何もわからないまま粘土のように素手で漆桶の外側にペタペタと錆漆を付けた俊之少年。もちろん凸凹だが、その仕上がりを気に入った新吉氏は、乾いた後に漆を塗り、金箔を施して、更に透漆で白檀風に仕上げた。その力作が下の写真。今でも大事に保管されている、じいちゃんの大切な形見だ。ちなみに、カブレなかったらしい。
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「4代目昂太の決意と覚悟」
実は、今年4月から俊之氏の長男・昂太(こうた)氏(22)が加わった。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、世の中も業界も暗いニュースが飛び交う中、明るい話題が飛び込んできた。昨今、伝統工芸の世界では後継者不足が深刻化。株式会社和えるの調査では、コロナ禍において年内に廃業を検討している伝統工芸の職人が実に4割にも上るという中で、昂太氏の決断は、京都の仏具業界に勇気と希望を与えた。
昂太氏は高校卒業後、美容師を目指し専門学校へ。修了後、多店舗展開するヘアサロンに就職。しかし、自身の中では2年後、つまり同級生が大学を卒業する年には牧野漆工芸に入ると決めていた。そこから逆算して、夢のスタイリストを目指した。そして丸2年を迎えようとした時、スタイリストデビューの打診があったが、昂太氏の選択は退職。自分のビジョン通り、塗師の道を選んだ。葛藤もあった。しかし、自身の慕っていた当時の店長が退職することもあって決心出来たという。どこかで聞いたことのあるエピソードだ。ちょっと前に、同じようなことを書いた気がする。
それにしても2年でスタイリストになるのは最初から難しいとわかっていたはず。なれてもすぐに辞めてしまうことになるわけで。不思議に思ってそのことについて聞いてみると、昂太氏は、「でも、自分の好きなことをとにかく納得するようにがむしゃらに挑戦してみたかった」。スタイリストとしてデビューこそしなかったが、店長の計らいもあり、営業時間外には練習と称して連日、友人知人のカットをし、充実した時間を過ごしたことで、きっぱりと2年で区切りをつけることができたという。「悔いはない」。
見た目はまだあどけなさも残る、今風の好青年。ある意味で夢を諦め、家業を継ぐことを決めた昂太氏。この責任感の強さは代々受け継がれる、塗師・牧野の血だろうか。今はまだ見習の身。じいちゃんとオヤジの背中を見て、京都を代表する塗師になるのも、そう遠くないかもしれない。とにかくこれからの活躍が楽しみで仕方がない。
今、牧野漆工芸は3世代が現役で活躍している。これは、京都の塗師ではもちろん、全国的にも、他の伝統工芸分野でも稀なことだと思う。牧野漆工芸は新一氏が創業し、現実には昂太氏は3代目。しかし塗師という仕事を継承するという意味では初代は新吉氏で昂太氏は4代目にあたる。
この歴史ある塗師屋・牧野漆工芸がここまでの規模にまで成長出来たのは、牧野ファミリーだけでなく、共に切磋琢磨してきたベテラン・中堅の従業員たちの存在が大きい。後半はそのキーパーソンたちにも焦点を当てる。
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とその前に、まずは牧野漆工芸の仕事について紹介したい。前回も説明したが、京都の仏具業界は、塗師の他に、木地師や箔押師、蝋色師、蒔絵師など一つのモノを完成させるのに、その工程ごとに専門職がいる分業制が敷かれている。その中で最も漆を使って頂くのが塗師の仕事。現在、京都仏具漆工組合(塗師と蝋色師の組合)に加盟する塗師は22軒。中谷・牧野はその京仏具の塗師を代表する2大看板。共に10人越の従業員を抱えるプロの漆塗り集団である。
全国に仏壇仏具の新調・修復する業者や職人は数多いが、漆塗りとなると全体の1割にも満たないのではないだろうか。もちろん、各地に漆専門の塗師もいて、忙しくご活躍されている方もいる。しかし、現実的に、需要のほとんどがカシュ―などの化学塗料となれば、廃業する職人さんの方が圧倒的に多いのだ。私が入社してこの10年で果たして何軒の塗師が廃業や転職をされたでしょうか?
そんな中でも京都の塗師は漆塗りにこだわる。下地は伝統的な堅地や半田地に加え、ニーズに応じてサフェーサーを使用することもあるが、トップに漆以外を塗ることはまず無い。牧野漆工芸はその京都の職人も認める技術とスピードが売り。10人もいれば、もちろん全員が漆を塗っているわけではなく、コクソや木地調整、下地、研磨、漆刷毛塗り、漆吹付け(天然漆のみ)といった役割分担がされている。それだけに、効率よく、きめ細かな作業が出来、仕上がりの良さは抜群だ。
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「京都が誇るオールラウンダー塗師」
牧野漆工芸の漆塗り(刷毛塗り)は会長、社長がその職人技を振う。漆器とは異なり、寺院仏具はかなり大きな物を塗ることが多い。とりわけ牧野漆工芸には、ムロと呼ばれる漆乾燥庫にも入れることの出来ないほど大物の厨子や須弥壇、宮殿などが集まる。これらを刷毛で塗るとなると、漆の調合が難しい。漆器のように回転ムロで硬化させることも出来なければ、ムロに入れずに乾かさなければならない場合も多い。つまり、漆の乾き、粘度を品物と時候に合わせて調合するのが極めて難しいのだ。刷毛もサイズや毛の長さの違う数種類を使い分け、最後は職人の経験と勘で勝負する。京都トップクラスということは言うまでもない。
さらに、是非紹介しておきたいのが漆の吹付け。納期や予算に応じて最近はこの漆吹付けのニーズが高まり、京仏具の塗師のほとんどが刷毛塗りと吹付けの技術を併せ持つ。
詳しく説明する前にまず勘違いしないでほしい。牧野さんをはじめ京都の塗師による漆の吹付けとは、100%天然漆である。よく、吹付け=化学塗料。と勘違いしている人もいるが、ここは正しく理解してほしい。
でも勘違いするのも無理はない。現に「吹付漆」という独自の概念で、漆に半分ウレタンが混ざった塗料を使っている所もあれば、某塗料メーカーではウレタンをベースに漆を少量添加したような塗料を販売している。しかし、それらはJIS規格で漆では通らない。さらに業界団体によっては独自のガイドラインを設けている場合もあるが、そのガイドラインにも漆では通らないのだ。それを吹付漆という独自の解釈で使っているという経緯があるため、不信感につながっていることは確かにある。
当社も魁という吹付用漆を販売しているが、この商品は天然漆に対して5%~10%の合成樹脂を添加することで、垂れやチヂミを緩和させる効果がある。この魁は、JIS規格や各種業界団体のガイドラインにも「漆塗り」で適合する唯一の吹付漆。このことも牧野さんの漆吹付けを説明する前に、お伝えしておきたい。
少し話が逸れたが、牧野さんや京都の塗師屋さんは、その魁すら使っていない。刷毛塗用の100%天然漆を吹き付けているのだ。言葉にするのは簡単だが、これがいかに難しくレベルの高いことなのか。そもそも「吹付漆」と銘打って各社が合成樹脂を混合した商品を販売したのは、天然漆を吹き付けることが技術的に難しいという職人からの要望を受けてのこと。スプレーガンで吹付けようと思うと、希釈を多めにしなくてはならないわけだが、そうすると、後から漆が垂れて、それによって溜まったところが縮むというのが、職人を悩ませてきた。そのリスクを解消する為に合成樹脂との混合塗料が誕生してきたわけだが、その混合塗料でさえ、化学塗料の吹付けよりも難易度が高く挫折することが多いのだ。
つまり、それだけ漆100%で吹付けるという技術は難しいということ。それでも京都では吹付けするのは天然漆オンリー。レベルの高さが伺えると思う。その京都の中でもクオリティが高く、同業者からも一目置かれるのが牧野漆工芸。艶ものから艶消しまで、漆独特の肉厚を保ったままキレイに仕上げるのは、まさに芸術品。日本トップレベルであることは間違いない。仏具以外の様々な業種や素材に対しても対応出来る素晴らしい技術だ。
そしてもう一つ、牧野漆工芸の大きな強みを紹介したい。それはお寺の現場での仕事に長けているという点。しかも、長期で現場仕事に出ていても、工場内で変わらず仕事が回せる体制が出来ていることが他社と圧倒的に違う強み。社長の俊之氏が陣頭指揮をとるわけだが、社長が現場に出れば、工房内ではリーダーシップをとる頼れる別の職人がいる。現場に出る職人は毎回変わっても皆同じ作業ができるスキルを兼ね揃えている。
重要文化財をはじめ、各宗本山、別院クラスの大きな物件から、全国の一般寺院の柱1本まで、ありとあらゆる現場を経験。春夏秋冬、漆の乾きやすい時期や極寒で漆が乾きにくい時期、海辺で潮風に悩まされる現場から、街中の鉄筋コンクリートで新築されるお寺まで、日本全国これまで手掛けた現場は数えきれない。その都度、アクシデントに見舞われては、試行錯誤を繰り返し、解決してきたことで、今では現場仕事のエキスパートに。もちろん下地から全て漆。得意先やお寺からの信頼は厚い。
牧野漆工芸のストロングポイントは上げればきりがないほどたくさんある。一言で表すなら、どんな仕事でもパフォーマンスが高い、京仏具塗師屋界のオールラウンダー。牧野に頼めば大丈夫、と難しく特殊な仕事も多いが、お客様の期待に応える信頼と実績の塗師である。
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「ベテラン・中堅の3人が飛躍のキーマン」
「従業員は財産だ」。
これは、昂太氏が会長である祖父新一氏から聞かされた言葉。
牧野漆工芸の平均年齢は34歳と若いが、30代の中堅従業員はすでに職人歴20年。俊之氏が女房役と表現する同い年の守下圭三氏に至っては、俊之氏より入社が早く、今年で30年。つまり、若いのにベテランが揃っているのだ。何が言いたいかというと、今京都の仏具業界でも後継者不足や人材育成は深刻な問題。高齢化が進む一方で、若き担い手が育たず将来を心配する声が上がっている。
しかし、牧野漆工芸はその心配は無く、むしろ伸びしろが無限に広がる頼もしい工房なのだ。私が今回あえて紹介したいのは、会長でも社長でもなく、その経営陣を影で支える3人のキーマンだ。
まずは守下氏。社長の中学校の同級生。彼の存在は誰よりも大きい。工房1階の下地場にいることが多い守下氏は、総理をサポートする官房長官みたいなもの。牧野漆工芸のすごいところは、若い従業員が、辞めずに長続きしているところ。業界の課題として若手育成があるが、塗師に限らず、伝統工芸の世界を志し、専門学校や大学で学び、職人の門をたたくことはたくさんあるが、その多くは、理想と現実のギャップに耐えられず長続きしない。受け入れる側も最近はかなり若手に気を使い、働きやすい環境を目指している。
しかし、社長の俊之氏の指導は私が客観的に見ても、他のどの工房よりも厳しい。もちろん愛情のある指導であることは前提で、それを若手も理解しているが、社長が厳しく叱責した後に、守下官房長官が何気なくフォローしているのだ。私も長い事通っているが、そういう現場を幾度となく目にしている。
普段は黙々と仕事するベテラン。会長、社長、従業員からの信頼が厚い守下氏。彼がいることによって、アメとムチの絶妙なバランスで指導が行きわたっているのだ。社長に守下氏について聞いてみると「感謝」の一言。特にフォローしてくれとは頼んだことは無いというが、守下氏がうまくバランスをとってくれている事は知っているし、ありがたく感じている。だからこそ、あえて厳しい指導をしているのだ。
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牧野漆工芸がここまで成長した要因の一つとして、中卒で入社し、今年35歳を迎える同期組、山本洋己氏と川勝章弘氏の存在がある。35歳にして職人歴20年を誇る2人は、今、牧野漆工芸の中堅として、必要不可欠な存在だ。業界で、牧野の「山」「川」といったらかなり有名。山本氏は先程から絶賛している漆の吹付けを担当。様々な漆の乾きや粘度、調合の仕方を試行錯誤し、牧野クオリティを実現する漆吹付けのプロ。たぶん、相当この仕事が好きなのだと思う。
一方川勝氏は、1階下地場を守下氏と共に統括する若きリーダー。自分より若い社員に対して的確に指示し、自身も問題意識、課題意識が高く、探求心旺盛な方。
この山・川コンビが、牧野漆工芸を支えていると言っても過言ではない。2人とも、現場仕事もこなせるユーティリティプレーヤー。この2人の成長が、牧野漆工芸に無限の可能性をもたらしている。
そんな若手の台頭著しい牧野漆工芸に、さらに新しい風を吹き込んでいるのが4代目の昂太氏。今、自分は右も左もわからない見習いの身。しかし、業界に対して誰よりも危機感を持っている。
彼の中では現在、仕事に対して優先順位がある。第一に、自分と年が近い3人の若手従業員に追いつき、追い越すこと。入ったばかりではあるが、自分はいずれ人の上に立たなければならないという責任感がある。そのためには、自分が一人前になることが最優先。「あの3人が自分の当面の目標です」と謙虚に語る。
そんな昂太氏が入ったことで、明らかに工房の雰囲気は変わった。今まで以上にモチベーションが高くなり、明るい雰囲気になったと私は感じている。昂太氏は今、仏具業界に依存するだけではなく、自ら漆の可能性を発信出来るように、様々な挑戦を従業員に提案している。漆塗りの技術を既成概念にとらわれずに異業種に活かそうと、牧野漆工芸の技術を駆使した漆の色見本やデザイン見本を作成。Instagramを利用した発信もはじめるなど、新たな取り組みをはじめている。
「昂太が入って工房に活気が増えた。俺は今、仕事が本当に楽しいよ」。
川勝氏が昂太氏にかけた言葉。眠っていた牧野漆工芸の潜在的なポテンシャルを掻き起した昂太氏の熱意。これは父親であり社長の俊之氏にも影響している。今、牧野漆工芸は覚醒の時。初代から脈々と続く、塗師の技と心。そして近い将来花開くであろう可能性に満ち溢れた塗師の種。歴史と革新。新たなフェーズに突入した新生牧野漆工芸の今後が楽しみだ。
筆者/株式会社堤淺吉漆店・森住健吾 Facebook Instagram
プロフィール
神奈川県南足柄市出身。私立桐光学園高等学校にサッカーのスポーツ推薦で入学。在学中、インターハイ3位、全国高校サッカー選手権大会準優勝。日本高校選抜選出。その後、専修大学に進学。体育会サッカー部所属。関東大学サッカーリーグ2部新人賞受賞。卒業後は、仕事とサッカーを両立できる京都の佐川印刷株式会社に就職(サッカーで)。日本フットボールリーグ(JFL)に所属し、選手として活動しながら、人事部にて採用活動に従事。度重なる大けがで2度の手術を経験。サッカー選手を引退し、退職。地元神奈川に戻り、高校時代に取材を受けた株式会社タウンニュース社に就職。茅ヶ崎編集室・厚木編集室にて記者・副編集長を兼務。入社2年後に結婚。相手は遠距離していた京都の漆屋の娘。2児の父となり、そして今、なぜか漆屋で働いている。