【職人探訪】Vol.8 継承編「京都一の塗師集団・中谷漆工所の技と心」
堤淺吉漆店が取り扱う、漆、材料、道具について毎回一商品に焦点を当て、実際に使用して頂いている職人さんや作家さんに、使い手目線の評価をしてもらう不定期連載企画。元地域情報紙の記者で、現在は堤淺吉漆店の営業として全国の職人さん、作家さんを回っている私、森住が昔を思い出しながらちょっと記者ぶってお届けする気まぐれコラム。今回は商品ではなく、少し目線を変えて、職人の「継承」をテーマに書いてみた。
Vol.8 【継承】京都が誇る仏具塗師・中谷漆工所編 Instagram
国の伝統的工芸品に指定される京仏壇・京仏具。木地・木彫・箔押・蝋色・蒔絵など、様々な専門職の分業で成り立つ職人の世界だ。中でも最も漆を使って頂くのが塗師の仕事。現在、京都仏具漆工組合に所属する塗師は22軒。加盟していない塗師を入れると恐らく40軒を超える。個人や親子で仕事する塗師が大半だが、京都には10人を超える大所帯の仏具塗師集団が存在する。今回は、2回に渡って京都を牽引する2大塗師屋カンパニーに焦点を当て、「継承」をテーマに書いてみたいと思う。初回は株式会社中谷漆工所。
京都市山科区。ここは京仏具の職人が最も多い地域。中でも京都仏具団地は塗師や箔押師、木地師に錺金具などの職人の工房が集結する。株式会社中谷漆工所はこの仏具団地の中にある。京仏具の塗師とは、一般に下地から漆塗りまでを担当。その全工程を一人二人で行う塗師がほとんどだが、従業員12名の中谷漆工所では、一軒の塗師の中でもさらに役割分担が決まっている。①コクソ・和紙貼り・木地調整、②半田地・堅地・サフェーサー下地、③研磨、④漆刷毛塗・吹付(天然漆のみ)といったような各工程にプロフェッショナルがいるのだ。それぞれ技を極めた職人が次の工程の職人のことを考えて妥協のない作業をする為、最終仕上がりも高品質。
個人で全てを作業すれば、どこがどう悪いかが自分で分かるが、分業の場合はそうはいかない。互いに意見を聞き合って、最善の仕事をする為、時にぶつかり合うこともある。しかし、そうして高め合ってきた技術は、他では真似することのできない中谷品質。手間のかかる仕事でも大物や数物でもハイクオリティでスピーディー。取引先の多様なニーズにも対応できるのが、中谷漆工所の強みだ。京都の仏壇仏具業界で一目置かれる、目標とされる塗師である。
26歳から60歳までの従業員を束ねるのは社長の中谷昌弘氏(44)。祖父が創業したこの会社の3代目。彼がこの業界に入ったのは13年前。高校卒業後、某大手家電メーカー関連の仕事に就き、営業職として客回りをしていた。「いつかは、継がなければ」と考えていた昌弘氏は、自身の結婚を機に家業を継ぐことを決意。2代目社長で父親である修氏にその想いを伝えた。職人気質で無口な修氏は表情も変えず「苦労するぞ」と言いながらも、息子が継いでくれることを喜んでいたと、あとから母親から聞いたらしい。
しかし今年1月、その修氏が急逝。中谷漆工所に悲運が襲う。業界にも衝撃が走った。誰もが予想しなかった事態に従業員も動揺したはずだ。でも告別式翌日から中谷漆工所は凛としていつも通り淡々と仕事に邁進していた。まったく変わらず。
5年前から社長を譲り受け、仕事の割り振りや段取りなど、まさに司令塔としてその手腕を振るっていた昌弘氏。仕事時間中は来客の絶えない工房の番頭として仏具店などからの依頼を聞いたり、従業員に指示したり、自身も下地場で研磨したり。しかし、皆が帰った後や休日には一人塗り場に入り、漆塗りを繰り返した。父親からは基本的な塗り方や刷毛の通し方を簡単に教えてもらった程度。自分が塗ったものに対して「アカン」と突き返されては塗り直しを繰り返した。どこをどう修正するかまで細かく教えてもらうわけでもなく、自身も「オヤジに教えてくれとは言ったことはない」。
しかし、「ある時から何も言わなくなった」。それが4年ぐらい前からだとか。「お前がもう塗っていけ」。当時言われたその言葉は今でも鮮明に残っている。「生きている間、一回も誉められたことはない」と昌弘氏は話すが、その言葉は修氏なりの最大の誉め言葉だったに違いない。以降、昌弘氏が刷毛を握ることが増えた。現在は、もう一人のベテラン塗師、四丸氏(58)と共にしっかりと、中谷の塗りを継承。修氏は安心して旅立ったのだ。
私も含め、外から見れば、急に父親を亡くし、追い打ちをかけるかのようなこのコロナ禍。中谷大丈夫か?と心配する声もあったが、「どうせ長生きできないしな」が口癖だった修氏は、まるで未来を見越していたかのように、息子に技と生き様を継承していた。全く心配無用で、むしろ一番安心して天国から眺めているに違いない。
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中谷漆工所の平均年齢は約50歳。社長である昌弘氏の年齢を大きく上回る。自身より一回り上のベテラン従業員が多いのだ。昌弘氏も将来を見据え、若手従業員を採用。今、工房内は明るく活気に溢れている。古株の従業員も若手の台頭にモチベーションが上がり、良い循環が生まれている。
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私が中谷漆工所に出入りするようになったのは入社から4、5年経った後。それまでは社長が回っていた。実は当時、ほとんど取引はなかったのだ。そこで、自分に行かせてほしいと社長に直談判して、担当を変わってもらった。
最初は、バカの一つ覚えのように、元気よく挨拶した。何も用事が無くても、怒られにいった。修氏は当初、目も合わせてくれなかった。幸い、昌弘氏は年齢も近く、自身も営業マンをしていた経験からたぶん、私の気持ちを察してくれたのだと思う。漆の良し悪しなど最初は関係ないのだ。まずは、いかに自分を覚えてもらえるか。これは前職で学んだことだ。以前も記者をしながら広告の営業をしていたが、今から思えば楽だった。営業成績も良かった。
でも職人さん相手の漆屋の営業は難しい。どんな仕事でも信頼してもらわなければ始まらないが、今でも自分がどう思われているのかわからないし、正解もわからない。ただ、思い返すと、特に中谷漆工所にはあまり営業らしい営業をしたことがないということ。質問されることに答えたり、困っている事に対処したりしてきただけ。出来ないことは出来ないとも言ってきた。社長だけでなく各職人とも話す中で、それぞれの要望を聞き、質問にも答えてきた。徐々に「あの漆良かったわ」とか「何とかうまいこといったわ」といった会話が増えるようになった。でも、その一つひとつの対応は、別に中谷漆工所だけにしているわけではなく、普段当たり前にやっていること。この繰り返しで、現在は月に20㎏程の漆を使って頂いている。
修氏も晩年は会話してくれるようになった。最後の会話は塗り場のガラス戸越しに交わした「刷毛は?」「すみません、もう少し時間下さい」という会話だった。依頼されていた刷毛の納品が遅れていたのだ。結局直接手渡すことが出来なかったが、私にとっては忘れられないエピソードだ。
生漆から様々な塗り漆まで、月に20kg。驚いた方もおられるのではないでしょうか?朱漆は何度がご紹介した新レーキ顔料を使用している。これだけの量をお使いなのに、お寺などの現場仕事はほとんどしない。工場内でこれだけの漆を消費する塗師は全国でも稀だ。この使用量を見れば、いかに仕事が集まっているかが分かってもらえるはず。
全国に寺院仏具を修復・新調する業者は数多いが、そのほとんどが漆ではなくカシュ―などの化学塗料。京都以外の仏壇仏具の産地でも同じ。漆仕上げは1割に満たない場合が多い。現実に仏壇仏具に漆が使用される割合というのは、ごくわずかなのだ。
しかし、そんな中でも京都の塗師は皆「カシュ―はうまく扱えない」という程、漆に特化している。下地こそ、ニーズに応じてサフェーサーを吹き付けることもあるが、仕上げに化学塗料を使うことは無い。その中でも特筆して漆を使って頂いているのが中谷漆工所。
安いから仕事が集まるわけではない。品質が良くて迅速、信頼と実績があるからだ。中谷漆工所に仕事を依頼していることを宣伝している取引先もあるほどブランド力もある。最近では、その噂を聞きつけ新たに取引が始まるお客様も多い。本物志向のニーズが高まっているのと、昌弘氏をはじめ、若手の活躍が仕事の幅を広げているのだ。
昨今、仏壇仏具の業界は厳しい状況下にある。漆を使った金仏壇の姿は現代の住宅事情からかけ離れ、檀家離れが急速に進むお寺では、修復したくても寄付が集まらない。そこに追い打ちをかけるかのように新型コロナウイルスの感染拡大。明るい兆しが見えない中、中谷漆工所も少なからず仕事に影響が出ている。しかし、工房内にそんな不安を感じさせる雰囲気は一切ない。皆前を向いている。3代も続けば、会社は様々な難局を経験している。初代も2代目も従業員の前で下を向くことは一切無かった。今、まさに試練の渦中にいるわけだが、脈々と受け継がれてきた中谷イズムは、この試練にも真正面から立ち向かい、必ずや中央突破するに違いない。新生中谷漆工所としてこの厳しい時代に挑戦し、未来へと技と心を受け繋いで行く。
次回は株式会社牧野漆工芸。
【筆者】
株式会社堤淺吉漆店・森住健吾
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プロフィール
神奈川県南足柄市出身。私立桐光学園高等学校にサッカーのスポーツ推薦で入学。在学中、インターハイ3位、全国高校サッカー選手権大会準優勝。日本高校選抜選出。その後、専修大学に進学。体育会サッカー部所属。関東大学サッカーリーグ2部新人賞受賞。卒業後は、仕事とサッカーを両立できる京都の佐川印刷株式会社に就職(サッカーで)。日本フットボールリーグ(JFL)に所属し、選手として活動しながら、人事部にて採用活動に従事。度重なる大けがで2度の手術を経験。サッカー選手を引退し、退職。地元神奈川に戻り、高校時代に取材を受けた株式会社タウンニュース社に就職。茅ヶ崎編集室・厚木編集室にて記者・副編集長を兼務。入社2年後に結婚。相手は遠距離していた京都の漆屋の娘。2児の父となり、そして今、なぜか漆屋で働いている。